ことばにすること同じようなトピックを何度も書いている気がします。

私たちの仕事の根幹に関わることだし、事実、マーケティングにおいて、とても大切なことなので、これに関して考えることが多いんですね。

 


ひとつ前の記事、M川さんの手紙にも出てきます。

「言葉を尽くして説明すればするほど大事なことが伝わらない、という想いがあるのではないか」と。

その通りなんですね。

「言葉で説明してしまったらおしまい。 せっかくの良さが無くなってしまう。」

「言葉にならないことにこそ、大切なことや美しいこと、想い、がある。」

「そもそも無粋だ。」

その通りです、はい。

 


それは100%同意したうえで、しかし、それでもそれをことばにするのが、私たちの仕事です。

ことばにする、というのは、限定的な意味に隠された意義をピンで留めるみたいなイメージで、そうすると、その周辺にあるたくさんのことが、ぼろぼろ落ちていってしまう。 または、ばらばら~、とか、さらさら~とか、ざざざ~、と。

でも、うま~~~くピンを刺すと、ぽろぽろ落ちていった周辺部が無くなって、下からちょっと違うものが見えてきたり、なんか、結構奥行きのある何かに突き刺さってることがあって、そうすると、突然、「あ~、そうなんだ!」、「じゃ、こういうこともできるよね」、「こっちとこっちがくっつくよ!」とかがぽこぽこぽこっと生まれてくる。

 


抽象的な、よくわからない話しになってしまってますね。
まさに、ことばにすることの難しさだな、うむうむ。

 


前の記事の進学塾の仕事のとき、もちろん、私はY川塾頭に「あなたの授業法や教育法にはどんな特徴がありますか?」と何度か尋ねました。 そのときには、「特にこれと言った授業法があるわけではありません。 本人の力と志望に合わせて変えています。 個々に合わせてきめ細かく。 やりとりは濃いですね。 緊張感を大切にしています。」というおこたえでした。

少人数制の塾としては、このことば自体は「あたりまえ」ですよね。

次に、授業の様子を見せていただきました。 英語の授業なんて、25年ぶりで、それだけで楽しかったですが、それはさておき、見ていると、ともかく進まない・・・・。 「調べ残している」単語はないか、ひとつひとつを生徒さんに詰めよって確認して、訳させ、慣用句の意味を問いただし、同じ意味を別の言い方に変えさせ、あるいは反対の意味の言葉を吐き出させ、時制を変えさせ、前置詞を変えることで全く違う意味になることを確認し、固有名詞や地名にまつわる話題を語り、構文を変えさせ、英作文をさせ、あるいは関連した例文を訳させ・・・。 結局、その日は1ページくらいしか進まず、しかし、「はい、今日はここまで。」とあっさり終了。 あとで聞いてみると、1時間で3行しか進まないこともあるとか。

(ん? 普通、進学塾って、たくさんの問題を解かせて、パターンを身につけさせたりするもんなんじゃないのか? これは変だぞ・・・。 塾頭が言ってた「あたりまえのことをあたりまえにやっている」のとは、違うぞ。)

と思った私は、後日、この手法に「学び尽くす」という名前を付けました。

私はコピーライターではないので、決しておもしろい、あるいは、目を引くことばにはできませんし、こうしてことばにしたところで、「それはどういう意味か」というのを説明しないと、すべてが伝わるわけでもない。

それでも、「一生懸命、向き合って、ひとりひとりと、丁寧に、しっかりと、緊張感を持って教える」にはない概念がピンで留められたのではないか、と、自画自賛。

 


信頼できる、現代的な、かっこいい、おしゃれな、きれいに、おしつけがましくない・・・。

ブランドのエクイティーや確立したいイメージ、あるいは、広告やパッケージの要素を語るときに、「使わないように気を付ける」ことばたちです。

私に、これらのことばを赤ペンで無造作に消された経験を持つクライアントも少なくないはず。

「こんなのは、何も決めてないのと同じだ、意味のないことを書くな、スペースがもったいない!」とか言いながら。 その節は失礼いたしました。 でも、今後も言いますので、あらかじめお許しください。

そのブランドやコミュニケーションに触れた結果として、個人が抱く感想としては、間違っていないんです。 しかし、それはあくまで結果としての感想であって、発信する側の意志としては、あまりに漠然としていて、方向を指し示していない。

こういうのを「方向やエリアを決めてくれる、けれど十分に深さを持つことばにする」、これがマーケティングの、戦略を決めることの、周りにいる人たちと仕事をすることの、そして結果としてお客さんの気持ちや行動に影響を与えることのおもしろさの、わりと真ん中のほうにある気がします。

 


「これ、なんか、もうちょっとかっこよく(おしゃれに・かわいく・現代的になど)なりませんか?」

と言ってみても、その先に待っているのは、果てしない「こんな感じですか?~ちょっと違うなぁ」連鎖か、水掛け論か、「わかりましたよ、あなたの言う通りにしておきますね」的な仕事放棄です。

それをなんとかするのがクリエータの仕事だ、と、突き放すのもひとつの方法ですが、結果責任と説明責任を負う立場にある人はそうもいきません。

ここはチャンスなので、「かっこいい」って、このブランドとターゲットにとって、なんだろう? と、考えてみて、それをことばにしてみる、「だいじなところ」をぐっとピンで留めてみる。

 


ガキの頃、ひとり、かっこいいやつがいて、なんか、ちょっと不良っぽいというか、ガキっぽいところもあるのに、なんかオトナと対等だったよね。 あいつ、スポーツ万能ってわけではなくて、バレーボールだけだったのになぁ。 バスケならわかるよ、スポーツとして人気だし、でもバレーボールよ。 顔? まぁまぁ。 どっちかというと濃すぎる顔だったな。 顔は俺のほうがよかったと思うよ。 むかつくよね。 悪いこととか、って、たかが服装とかだけど、同じことしても、あいつは怒られないし、女の子とかきゃ~って言うのに、俺がやるとすぐ怒られたり、笑われたりするのさ。 何が違ってたんだろう。

生意気な、でも、できるプロスポーツ選手のかっこよさって、なんか、この感じに似てるよね。

なんてことをいろいろと考えるわけです。

で、それをことばにする=名前を付ける。

 


Irreverence Justified~極めたものだからこそ許される不遜」

 


某有名スポーツブランドの有名な「ことば・名前」ですね。

だから、人はそのブランドを、Coolといい、かっこいい、というわけです。

「かっこいいブランド」で止まってない。

このピンの留めかた、ほれぼれします。
このマーケッター、かっこいい~~~~。

(自分の考えたやつじゃなくて、すいません。)

 


「ことばにしてしまうことで、失われるものがたくさんある」ことが、わかっているのに、それでもそれをことばにする。

だったら、その責任をとって、ことばにしたことによって生まれるものが、失われたものと同じかそれ以上のものを生み出せるものにしたい。

それを探して、ピンで、おりゃ!と、突き刺す。

なんてことを想っているわけですよね、あたし。 なかなかうまくいかないけど。


なかなか当たらない井戸掘りみたいなもんなのかな、マーケッターって。

 


お。